巨大な水

通り過ぎるものすべて

『キャロル』(2015)について

GYAO!のサービス終了に伴ってドラマ映画無料大放出が行われていたので、滑り込みで『キャロル』(2015)を見た。サ終は3/31だがこの映画の無料期間は3/23までだった、危ない……。

 

〇画面
シンプルに画面が美しい。
登場人物たちの目線というよりも、たまたまその人物を見かけた第三者によるのぞき見、一時の凝視のような構図が多く、それが構図に目を向けさせるような、映画の芸術性を高めるような効果を生み出していたと思う。キャロルは「視線」の映画で、それをより意識させるための仕掛けだったのかもしれない。

 

〇視線とロマンス
二人が最初に車に乗り合わせる時の、キャロルの声が遠くで響いてテレーズの目線が目元、口元、手元へと移っていくシーン、思わず息をつめてしまう良シーンだと思う。
キャロルとテレーズの会話になんとなく漂う、相手を試すような言葉遊び、肩に一瞬触れる手、二人が交わす視線、こういうものに宿る、その一瞬しかつかめないような情熱を描くことに力が入れられてた気がする。それはロマンスの成立過程で、全編通してこういう「口には出さない」色気と緊張感が漂っているのもこの映画の魅力だろう。「口には出さない」ってのはこの時代に(今もだけど)セクシュアル・マイノリティに向けられていた強い偏見と差別から身を守るために必要な事でもあって、関係性の描き方としての良さと、時代背景を反映させて観客に意識させるということを両立させてるのが凄い。

 

〇バランス感覚
「道徳的条項(morality clause)」の件でハッとしたけど、この二人はただの「悲恋」とかではないのもポイントが高い。確かにキャロルは結婚生活に倦んで他者と肉体関係を持っている点で責めを負わざるを得ない部分があり、一方で彼女を愛しているんだと言って、離婚を中々認めなかったり証言にあの録音を用いるようなハージも道徳的か?と言われればそうではなく、テレーズの意思を尊重しないリチャードも、流されてここまで来たと自認するテレーズにも、善悪両面あって、登場人物を簡単には責められない構造になっていたという。
初見がかなり前だったのでその時は気づけなかったけど、この複雑さが性的マイノリティを描く上できちんと取り入れられている映画だったことで、さらに自分の中でこの映画の評価が上がった。

 

〇リアリティ
そして随所にあるリアリティ。ものすごい直接的でハードな差別を受ける描写がない代わりに、ハージの両親がキャロルの(恐らく)性的指向を病気扱いしていることや、リチャードの罵倒、キャロルの弁護士の記録の制止などの差別が出てくる。日常に登場して、それを行った人にとっては小さなことでも受けた人間には大きな傷になるかもしれない差別がちりばめられていたのがリアルで普通に胸が痛かった。
ハージの両親の描き方も良かった。映画後半のランチのシーンでハージの両親がキャロルを病人として扱う場面があり、そこでキャロルの性的指向のことを言っているのか、そもそも結婚している状態で性別を問わず他人と関係を持つようなことなのかぼかした言い方をしている。ここがすごくリアルで、明らかにキャロルに良い感情を抱いてないんだけど、でもリンディが来てからリンディしか見えないようにふるまうキャロルに対して、ハージと共にうっすら残念さと後悔が混じったような顔をする。別に映画の中でそれ以上説明があるわけではないけど、ただキャロルを蛇蝎のごとく嫌っているわけではない10年間の結婚生活が想像される。
マイノリティを描く物語だとどうしても「悪者」を出してやっつけたり改心させるのが気持ちよいので、よくある気がするけど、それぞれの生活、それぞれの想い、状況があって、傷ついたり傷つけられたりしながら、なんとかやってかないといけないという人生のリアリティを基盤にしている所は信頼できるな~と思いながら見ていた。

 

ケイト・ブランシェット
ケイト・ブランシェット………………。普通に与太的な感想だけど、ケイト・ブランシェットが画面に出てくるたびにミ!みたいな変な声が口から出そうになるくらい、一瞬一瞬のたたずまいの存在感、説得力、美しさがヤバい。タバコの煙の向こう側で笑ってるのが似合いすぎるだろ…………。映画後半の、破滅の予感に揺らいで、取り繕っていたものが壊れそうになっている演技も素晴らしくてため息をつきながら見ていた。
オーシャンズ8は既に視聴済みで、そこでは気持ちよくケイト・ブランシェットのかっこよさ美しさを消費するような感じがあったので、それはそれで大変良かったけど表現とか演技をじっくり楽しめる作品も見たいな~と思っている。とりあえず『TAR』は見に行きます……。