巨大な水

通り過ぎるものすべて

『市子』(2023)について

今年見た映画の中で一番悪かった〜みたいな批判的な内容です。ネタバレを含みます。

 

 

 

 


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〇形式
主演俳優の演技がとにかく凄まじくて、良いというのは映画館で見てよかったな〜とギリギリなったけどそれ以外の人の演技にずっと違和感があった。声の出し方?抑揚の付け方?みたいなところが気になって集中できず、最近海外の映画ばかり見ていたのも原因だとはいえ肌に合わないまま終わってしまったな……だった。他の邦画やらドラマやらでは感じない違和感だったのではっきりとして理由は分からないのもモヤつくな〜割と演技を褒めてる評価が多いだけに。
あと台詞が全体的に繋がりがない、ここでこう言わせたらカッコ良い/感動的だからこう言わせます!というのが透けて見えて自然さがないところが割とあったのも気になってしまった。


◯舞台装置?
舞台装置という言語化が適切なのか分からないが、市子以外のキャラクターが全員市子という人間を照らすためだけの装置として扱われてて厚みが無いとも感じてしまったな〜でもそれは原題「川辺市子のために」を考えると全然頷けるとこではあるんだけど、やるなら徹底的にやるべきで、微妙に長谷川くんに情を持たせようとする演出みたいなのがあったからこれってもしかして技量のせいで市子以外の人間が薄っぺらくなったのか?となってた。
市子から見れば映画に登場するあらゆる人間が突然彼女の人生に現れては身勝手な感情を押し付けてくる存在なので、いや本当に別にいいんだけど、北くんが完全に市子に狂ってしまってるのとかは流石に突然すぎたのでは?それが市子にとっての怖さを表現するためだとしても、わざわざ北くんの部屋にたくさんの観賞魚たちがいるところとかガリガリくんを1人で食べていることとかを描写してるのに北くんに「市子に狂ってしまった」以外の人間性が付与されないのは技量が足りなかったんじゃないか……。


〇表象の仕方
これも結局、社会問題やら事件やらどうしようもできない悲惨さを記号として扱ってしまってるのでは…というのがこの映画が気に入らなかった一番の理由かもしれない。最近は(かなり前からやってる人はやってるんだろう)こういう苦しみやら最悪さを記号化して映画のトピックにしてって普通に搾取では?という批評が割とあると思うけど、今回も市子は属性を散々付与された挙句死と別れを振り撒いて去っていくファム・ファタール的描かれ方をしてて、もうそういうのやってる場合じゃなくないですか?
あと月子の視点がほぼなかったことをスルーしてよく絶賛できるな?という、いややっぱりシンプルに怒りがある。月子が市子の悲惨さの一部になるためには月子のパーソナリティや視点が見えたらダメだから明らかにモノとして扱われて、介護に疲れた市子との対峙のシーンで突然人間であることを殊更に強調されて、本当にそんな扱いで良いと思ってるのか?あの映画をみてそこに違和感でも怒りでも覚えない人間が市子の凄まじい人生に打ちのめされたって、それ本当に打ちのめされただけでその先になんもないだろ?とか、うーーん。


とにかく見た後の違和感と怒りとモヤモヤがすごくて別の映画で口直ししたいと思わされたのは久しぶりだった、まあこういう映画経験もあるよな……。それはそれとしてやはり月子の描き方の問題は本当に大きいと思うので、そこにちゃんと言及した批判がもっとたくさん出てくるべき〜と思う。